未成年

 9月の始め。まだ蒸し暑い外は、それでも秋らしい光の柔らかさを徐々に増そうとしていた。
 そんな昼下がり。
 ぼんやりと外を眺めればせわしなく歩く人たちのファッションにも、もうすでに秋物がちらほらと見える。

「梓ちゃん? ねえ、聞いてる?」

 秋が来ればすぐに冬。そしてまたすぐに春がやってくる。
 夏はその次で。まだ、後1年近くもあるのだ。

「ねえ、梓ちゃんってば」

 冬休みも春休みもそんなに頻繁に会えるわけじゃない。だから、秋がきて、新学期が始まってしまった以上、次の夏休みが待ち遠しく感じるのも当然といえば当然で。
 おまけに今は……。

「もう。梓ちゃんっ!」
「ひゃっ!?」

 頬をふにゅっと摘まれるにいたって、梓はそこが行きつけの喫茶店であることを思い出していた。目の前では唯がほんのちょっと頬を膨らませて梓を軽く睨みつけている。
 第二土曜日の今日、高校は休みで。気晴らしにと唯を誘い出したのは梓の方だったのだ。その梓がぼんやりとしていたのである。唯としてはちょっと面白くなかったり心配でもあったり。

「梓ちゃん、大丈夫? どうも最近おかしいんだけど」
「え……うん。ごめん」

 繕うように笑って見せても唯の疑念に満ちた眼差しが緩むことはない。そこは幼馴染。幼稚園から高校まで同じ仲の唯をごまかすことは至難の業だった。
 いっそのこと、白状してしまった方が楽というものである。
 だけどそう簡単に口にも出来ず、口篭もる梓に唯は駄目押しの一言を口にした。

「西嶋先生とは最近、どう? うまくいってる?」
「う゛…………」

 一気に言葉に詰まるわかりやすい梓の反応に唯は思わず苦笑を浮かべた。

「もしかして、喧嘩でもした?」
「喧嘩っていうか……」

 心配そうな唯を前に梓は思わずテーブルに突っ伏してしまった。
 なんと説明すればいいのか。

「喧嘩じゃあ、ないの?」
「んー……喧嘩……みたいなものなんだけど……」
「じゃあ、なあに?」

 煮え切らない梓の態度に唯が首をかしげ、それでも容赦するつもりがないのは明らかな笑みを浮かべて追求してくる。どこか気弱な癖して、こんなところは容赦がないのだ。
 ついに梓は観念して口を開いた。

「うん。実はね……」




「西嶋先生、今日の実習日誌もよろしくお願いします」
「ああ、わかった」

 金曜日の夕方。小山美鈴(こやまみすず)の差し出した日誌を受け取ると、隆は早速目を通した。
 教育実習が始まって今日で5日目。月曜日からだから今日で一週間が終了したことになる。

「どう、慣れた?」
「はい。子供たちはかわいいし、西嶋先生も優しいですから」
「児童たちも慣れてるしね。この調子なら卒業しても間違いなくいい先生になれそうだね」
「ありがとうございます」

 照れたように微笑む美鈴に隆は暖かい眼差しで微笑んで頷いた。こうして話していると自分が教育実習に行った時のことを思い出して懐かしさを禁じえない。
 実際、美鈴は児童からの受けもかなり良かった。
 22歳になりたての大学生と言うことで比較的児童たちと年が近いということもあるだろうが、何分明るくて面倒見がいい。おまけに美人だと来ればこれは人気が出ないわけがない。ショートボブの少しだけ茶色がかった髪。二重のパッチリとした瞳。どちらがと言えば顔立ちは親しみやすい童顔で、化粧も控えめなので高校生と言っても差し支えないほどだった。身長はさほど高いほうではないが実に健康的なスタイルの持ち主で、男子の間でも憧れている児童がいるとかいないとか。隆が担任を勤める5年3組の児童からは姉同然のように慕われていた。

「元気のいい児童たちの相手で疲れただろう? 週末はゆっくりと休むといいよ。まだやっと半分だしね」

 慣れないころ、自分はへとへとだった。それを思い出して隆は美鈴を労ったのだった。土日が休みになってしまった分、平日へのしわ寄せもある。隆としても、週末の時間は大事なものだった。特に今は。

「じゃあ、お疲れ様。今日はもう、いいよ」

 日記を差し出す隆にいつもなら『お疲れ様でした』と頭を下げる美鈴が、今日はじっと自分を見ている。

「あの……」
「ん? どうかした?」
「明日なんですけど、先生、お忙しいですか?」
「明日?」

 明日、と言えば第二土曜日である。と言うことは。
 隆の頭の中に梓の姿がよぎる。確か、梓が通う高校は第二土曜は休みなのだ。そして、隆も明日の当直はない。

「んー……忙しいと言うか……まあ、それなりにはいろいろとあるけど。どうかしたの?」
「実は……相談に乗って欲しいことがあって……。これからのことで、なんですけど……」

 そう訴える美鈴の顔は真剣そのもので。むげに断るにはあまりにも真剣そのものだった。

「今からじゃ、だめかい?」
「いえ……今からはちょっと……。せっかくのお休みに申し訳ないとは思うんですけど……」

 将来への迷い、だろうか。自分にも覚えがある。教職への道をひた走りながら本当にこれでいいんだろうか。そう思ったことが。
 これまでも放課後遅くまで残って隆にいろいろと質問やアドバイスを繰り返してきたまじめな彼女だ。きっと人一倍思い悩んでいることがあるに違いない。
 そう思った隆は、心の中でふくれっつらをする梓に手を合わせつつ頷いてしまったのだ。




「……つまり、その、教育実習の女子大生に焼きもち妬いてるってこと?」
「ち、違うわよっ」

 いきなり核心をついた唯の言葉に慌てたように反駁するものの、真っ赤になったその顔と慌てようでは説得力の欠片もない。梓は、氷が溶けかかったオレンジジュースのグラスをくるくるとストローでかき回してまるで場を誤魔化そうとでもするかのようにちゅーと勢いよく啜った。
 だが、唯にとっては梓の心境などガラス窓を透かすようなものであるらしく、もっともらしく頷いてケーキをつつく。

「西嶋先生って結構優しいし、熱血漢だもんね。ほっとけなかったんじゃないかしら」

 そんなことはわかっているのだ。
 唯の言葉になおも梓は憤然としてオレンジジュースを啜った。
 そんな隆だからこそ好きにもなったし、6年間もずっと一緒にいられたのだ。
 だけど。
 わかっててもやっかいな女心は納得できないのである。

 いっそ自分にだけ優しければいいのに。

 そんなの隆じゃないと思っててもそう思ってしまうものなのである。
 そんな梓の気持ちがわからないではないのか、唯も困ったような笑みを浮かべてテーブルに頬杖をついた。

「そんなに心配なら、電話してみれば?」
「そんなことできるわけないじゃない」

 そう。
 出来ないのである。
 なぜなら。

「昨日、電話で『大っ嫌い』なんて言っちゃったし……」
「あらら……」

 ただでさえ、梓が小学校を卒業してさえも人目を憚る二人なのだ。当然そんなに頻繁に会えるわけでもなく、今日は久しぶりに訪れた絶好のチャンスだったのである。
 なのに。
 隆と来たら女子大生に鼻の下を伸ばして『相談にのってやらないといけないから』などと今日のデートをキャンセルしたのである。それでなくとも最近はその実習生のおかげで電話もままならなかったのに、これが怒らずにいられようか。

「……鼻の下は伸ばしてないと思うよ……?」

 唯の弁護も今の梓の耳には入らない。
 確かに女子大生は魅力だろうがだからって大事な彼女とのデートをキャンセルするなんて……っ。……女子大生……。

「今はコギャルの方がトレンドだもんっ」
「……梓ちゃん……何気に対抗意識燃やしてる……?」
「燃やしてないっ」
「……あ、そ」

 ……恋する乙女心は微妙なのである。




 結局、『先生は誠実な人だし、浮気なんて絶対心配ないよ』と言う唯の太鼓判にしぶしぶ納得し、梓達がその喫茶店を出たのは夕方7時を回ったころだった。
 9月の夕方7時ともなるとそろそろ夕闇迫る時間帯である。

「晩御飯、どうする? あたしはお母さんに外で食べるって言ってきちゃったんだけど……」
「んー……今月お小遣いピンチなんだぁ。マクドかどっか、安いとこいかない?」
「梓ちゃん、月半ばでピンチって……。うん。あたしは別にいいよ」

 梓の提案に二人は並んで歩き出す。
 門限の9時までまだ時間はある。それまではどこか近くのファーストフード店で唯とのおしゃべりを楽しむつもりだった。自分だけ白状させられるのは面白くない。弘毅との進展について聞いてやらなくては。
 そう意気込んだ梓の目にふと、何かが飛び込んできた。

「……!?」
「梓ちゃん?」

 唐突に立ち止まった梓に唯も立ち止まる。見れば、梓の顔がどこか強張っていた。
 その視線の先を追いかけ、唯は思わず小さな声を上げた。

「……あ……」

 その視線の先にあったもの。
 それは、仲良く肩を並べて歩く隆と連れらしい見知らぬ女性の姿だった。しかも、腕を組んでいる。
 年恰好から推測して、あれが件の女子大生に間違いはなかった。

「……先生……」

 呟いたまま凍りついたように動けない梓の視線の先で二人はタクシーに乗り、狭い路地を消えていった。
 その先に何があるか梓でなくても知っている。
 ネオンもまぶしいラブホテル街。

「……やっぱり……鼻の下伸ばしてるじゃない……」
「梓ちゃん……きっと、送っていこうとしただけだよ」
「美人って言うか……大人っぽいよね……。やっぱり女子大生と女子高生じゃ、比べ物になんない」

 普段から感じている年齢の壁をまざまざと見せ付けられた梓にとっては美鈴の童顔も大人っぽく映ってしまう。傍目から見るとあの二人は誰の眼から見ると似合いのカップルに見えることだろう。
 自分だと、どうしても『年の離れた兄妹』の域から抜け出せないのに。

「大丈夫だよ。先生が好きなのは梓ちゃんだけだから」

 唯の言葉が空しく響く。

「……嫌い」
「梓ちゃん……」
「先生なんか大っ嫌いっ」
「梓ちゃん! 待って!」

 呼び止めながらも唯はわかっていた。
 こうなった梓は、絶対に立ち止まらない。
 走り去る梓と、隆達が消えていった路地を交互に眺め、唯は人知れずため息をついたのだった。




「西嶋先生、すみません」
「仕方ないよ。足をくじいちゃったんだしね」

 白い包帯を巻いた足をさすりながら申し訳なさそうに頭を下げる美鈴に隆は軽く笑って首を横に振った。通りすがりの自転車にぶつかられてくじいた足はすぐに病院に向かったのが良かったのか思いの他軽症で済んだようだった。タクシーが狭い路地を通るなどの近道をしてくれたおかげで病院に早く着けたのも良かったのだろうと思う。
 ホテル街のネオンの中をタクシーで走るのはなんとも恥ずかしいものがあったが。
 ともあれ、病院から美鈴の自宅へ向かうタクシーの中で隆はふと、梓のことを思い出さずにはいられなかった。
 現在夜の9時過ぎ。救急病院の常としてかなりの時間がかかってしまったのである。夜にでも会えればと思っていたのだが、その夜まで潰れてしまったのでは気の強い彼女の機嫌を治すのはかなりの骨を折ることになりそうだった。それでなくとも昨日の電話では『大っ嫌い』などと怒鳴られてしまっている。

 帰ったらすぐに電話しなきゃダメだな……。

 なんと言ってご機嫌を取ろうか考えをめぐらしながら窓の外を眺める隆に美鈴が声をかけた。

「先生、彼女とかいるんですか?」
「……え?」

 遠慮がちなその質問に、ちょうど梓のことを考えていた隆は一瞬返答に詰まってしまう。学校では彼女はいないということにしている。
 当然だ。
 つきあっている彼女がまだ高校2年生では周囲も煩い。おまけにそれが教え子だということにでもなろうものなら小うるさい学年主任から何を言われるかわからない。
 もちろん、それは梓も不承不承ながら了承している話で。
 幸い隆を訪ねてくる卒業生は多いので、今のところ梓と付き合っているということはばれてはいないのだが。

「先生、優しいし、かっこいいからいても不思議じゃないなと思って」

 そう言って笑う美鈴になんとなくぎこちない笑みを浮かべて隆は首を振った。

「いや、いないよ。なかなか出会いもないしね」

 この答えに、美鈴の表情が変わった。
 どこか安堵したように微笑んだのである。
 タクシーが止った。美鈴の家の近くについたのである。
 美鈴が遠慮がちに口を開いた。

「先生、良かったら上がってお茶でもいかがですか? お礼も兼ねて」
「お礼ってほどなにかをしたわけじゃないから」

 当然の如く断る隆に美鈴はなおも言い募る。

「でも、今日はすごくお世話になってるし、お礼がしたいんです。軽くお食事も作れますから」
「いや、でも……若い女性が一人暮らししてる家に上がりこむのはちょっと……」

 正直な話、隆が一人身だったら上がりこんでいたかもしれない。それほど、美鈴と言う女性は魅力的だと隆にも思えた。しかしながら今は梓の方が気になる。お姫様の機嫌を取っておかないと、後が大変なのだ。

「玄関先まで送っていくよ。足の怪我もあるし、今日は早く休んだほうがいい」

 そう言われては美鈴もそれ以上は何も言えない。
 アパートの玄関先まで隆に支えられ、美鈴は頭を深々と下げた。

「本当に、ありがとうございました」

 その目が、なんとも寂しげで残念そうだったのに隆は気づこうとはしなかったのだった。




 暗い部屋の中で、梓は一人ベッドに蹲っていた。
 夕飯を食べる気もしない。お風呂に入る気もしない。
 もちろん勉強なんてとんでもない。
 顔を伏せてあげようともしない梓の枕元では先ほどから何回もけたたましい携帯の着信音が鳴り響いていた。ディスプレイの文字は『先生』。
 もっとも、たった一人にしか設定してない着信音がディスプレイを見なくとも梓に誰からの電話かを伝えていた。
 そのはずだったのだが。

「先生の馬鹿……」

 すでに涙でぐしゃぐしゃに濡れてしまった枕から顔も上げずに梓は一人呟いた。
 出てなんかやらない。
 あんな浮気者、話してなんかやらない。
 だけど、もっと腹が立ったのはそれでも電話に出たくてたまらない自分自身だった。
 声が聞きたい。
 何でもいいから抱きしめて欲しい。
 こんなに好きなのに。

「馬鹿……」

 そのころ隆は何度鳴らしても繋がることのない電話に密かにため息をついていた。

「……まだ怒ってるのかね、お姫様は」

 呟いてラグソファに身を投げ出す。
 しかしいくら梓が臍を曲げると強情だとは言え、今までこんなに電話に出なかったことはなかったのだ。
 知らず不安が湧き出してくる。
 だが、元が割に楽天的な隆は、それ以上深く考えることはしなかった。

「明日、また掛けてみるか」

 明日は朝から当直だが、学校からだってかけられないことはない。
 携帯電話をテーブルの上に放り出し、隆はシャワーを浴びるべく立ち上がったのだった。




 日曜の朝、腹が立つくらいの快晴の中、梓はぼんやりと寝不足の目で窓の外を眺めていた。さわやかな秋晴れの空に小鳥が飛んでいる。ぼさぼさの髪を撫で付けることもせずに朝のさわやかな風景を眺めていた梓は、唐突にベッドから降り立った。

「シャワーでも浴びてこよ……」

 そして1時間後。
 梓は私服姿で家の前の道を歩いていた。
 めざすは母校である小学校。つまり、隆が勤務する小学校である。
 今日が当直であることは聞いている。短い時間かもしれないが隆に会って話がしたかった。
 つきあって6年。
 子供な梓に隆は良くつきあってくれたと思う。大人の余裕なのか。それとも隆の性格なのか。梓への愛情のなせる技なのか。
 いつもいつも、どんなに梓が悪くても隆は一歩引いていてくれたのだった。
 そんな隆が浮気したなんて信じられない気持ちが半分。
 やっぱりそんなだから呆れられちゃったのかと言う諦めが半分。
 だから梓は一つの結論に達した。
 あって、本当のことを聞こう。そうでないと、このままじゃ終われない。
 振られるのにしても、自然消滅なんていやだ。
 日曜の朝の小学校は静かなものだった。
 高校みたいに部活動がないので児童もいない。ただ、教師たちの持ち回りがあるのは学校で栽培している植物などのためと言う噂もある。だから隆も昼には帰れるのだが。
 久しぶりに校門をくぐり、職員室がある特別教室棟へと足を運ぶ。ここまで、人っ子一人見かけない。梓は職員用の玄関から上がるとひんやりとした廊下を左に曲がった。右に行くと階段で、そこから2階に上がれば今となっては懐かしい理科室へ行くことができる。
 懐かしい職員室のドア。昔と変わらず薄汚れた木製の引き戸を引きあける。

「失礼しま……」

 そこで梓は凍りついた。
 梓が見たもの。
 それは、朝の光の中で重なり合う男女の影。ドアが開く音に振り返ったその姿は、確かに隆だった。
 女性は昨日見た、あの女性。

「え……上村……?」

 妙によそよそしい、その呼ばれ方が悲しかった。
 これ以上、1秒もそこにいたくはなかった。
 梓はその場で踵を返し、走り出していた。

「失礼しましたっ!」
「お、おい! 上村!!」

 聞こえたその声に立ち止まる気は到底起こらなかった。
 まろび出るように校舎を出て、校門へ向けて走る。今は涙も出なかった。

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