櫻〜風華抄〜(前編)

「山下。君は物の怪を信じるか?」
唐突な級友の言葉に篤志は眉を潜めた。
町の小洒落たレストラント。口にほおばったライスカレーをごくりと飲み込むと水が満たされたコップを手に取る。
「いやに唐突だな。何かあったのか?」
オムライスを突付く級友を見ると待ってましたと言わんばかりに目が輝く。どうもこの男、いろいろと影響を受けやすい。
「いやあ、先日出版されたばかりの『遠野物語』を購入したんだ。これがなかなかに興味深い。」
「へえ?お前が柳田國男を好きだとは知らなかったよ。坂下の目にとまるような奇天烈な内容でもあったのか?」
揶揄するような口調の篤志に坂下利和は熱弁を振るうべくスプーンを皿に置いた。
しまった。こうなるとこの男は長い。
篤志は壁掛けの時計を見ながら小さくため息をついた。
まあ、大学の講義など後ろからこっそり入れば大きな講堂だ、気づかれることもあるまい。
「実に興味深かったね。遠野の河童は赤いそうだ。なにやら昔懐かしいような御伽噺も出てきたが、物の怪大辞典のような様相でもあったよ。」
坂下の言葉に篤志はくすりと笑った。
「どうせお前のことだ。其の河童の項だけ抜き読みしたのではないか?」
皿にカレーにスプーンを突っ込んで大きく一口頬張る篤志に坂下は憤慨したように詰め寄った。
「失敬だな。僕は買ってからそれこそ目次の端から後書まで読んださ。しかしあの本。佐々木鏡石と言う男から伝え聞いた話らしいが、あれほど物の怪に詳しいのなら自分で出版すればいいだろうにな?」
「佐々木鏡石とは佐々木喜善という男のことだ。いわゆる遠野出身の語り部と言うだけで本を出す気はさらさらないやつじゃあないか?」
「・・・ずいぶん詳しいな?」
じっと己を見る坂下の視線に篤志はうんざりとため息をついた。
「俺の兄貴が民俗学者かぶれてるのをお前も知ってるだろう?兄貴も漏れなく遠野は買ったそうだ。それを細部の漏れもなく俺に語ってくれる。迷惑な話だよ。」
いかにも参ったと言う口調の篤志に坂下は、はっはあと声をあげて笑った。
「まだ兄上が家に押しかけてきてるのか。寂しいんだろう。家に戻ってやったらどうだ?」
坂下の提案に篤志はとんでもないと首を振った。大学まで徒歩と汽車でたっぷり1時間半はかかってしまうのだ。とんでもない。
「しかし面白いものだがなあ?マヨイガのくだりなど実に羨ましい限りだ。僕も山に分け入ってみようかと言う気になったね。」
マヨイガとは山に入った人の前に唐突に家が現れ、其の人に幸福を与える・・と言った話だったように思う。篤志は夢見る口調の坂下にふふんと鼻先で笑い、首を振った。
「やめたまえよ。今は明治の世の中だぞ?そんな御伽噺のようなことがあるわけがない。」
最後の一口のカレーを押し込んで篤志は立ち上がった。講義には何とか間に合いそうだ。
其の篤志にからからと笑いながら坂下はオムライスの残りを突付きはじめた。
「君は相変わらず現実的だなあ。夢を持たなきゃ。人生面白くないぞ?」
「夢追い人は兄貴だけで十分さ。じゃあ、講義、遅れるなよ。」
どうせもう来るつもりはないであろう坂下に声をかけると篤志は荷物を肩にかけた。其の篤志に思い出したように坂下が声をかける。
「ああ、そうそう。今日、有志で花見をしないか?穴場を見つけたんだ。」
「花見・・?今の時期、昼から場所取りをしないと見られないだろうに?それに、有志といってもどうせ俺と、お前だけだろう?」
怪訝そうに言う篤志に坂下はからからと声を立てて笑った。
「まあ、そう言うなよ。いい酒をもらったんだ。それから絶好の穴場とな。美しい桜だ。まさに幽鬼でも潜んでいそうなほどにな。」
「ふん。馬鹿馬鹿しい。」
肩をすくめて背中を向けた篤志に坂下はこりもせずに声をかけた。
「五時に校門で待っていてくれたまえ。素敵な花見を約束するよ。」
「ああ、せいぜい期待しているさ。」
暢気な声に篤志は背中越しに手を上げただけで答え、レストラントを去っていった。

5時きっかりに校門の前に着くと、坂下はすでにそこにいた。手にした風呂敷包みからは一升瓶が覗いている。
「やあ、来たな。それじゃあ早速行こうじゃないか。」
校門の桜はすでに散りかかっていた。肩にかかる花びらをつまみながら篤志は坂下の横を歩く。
「もう桜も散りつつあるな。そこの桜は大丈夫なのか?」
「安心しろよ。そんなやわな桜は君に紹介しない。」
夕暮れ近い時刻。まだ日は短いが、天気がいいため傾いた日が心地よい。もう少しすれば少し冷たい風が町を渡るようになるだろう。
「坂下。その桜というのは一体どこにあるんだ?」
どうにも解せない。この辺りの名所はどこも酷い混雑振りで、花見どころではないと今日もあちこちで聞いたばかりだ。
「まあ、まあ。いいからついて来たまえよ。」
鼻歌でも歌いだしそうな雰囲気で歩く坂下についていくこと30分。かなりはずれの住宅街に差し掛かってきたころだった。
「もう近いぞ。」
「こんなところに桜が?担いでるのじゃあるまいな?」
苦笑混じりに言う篤志の前で坂下が足を止め、ある一点を指差した。
「あそこだ。」
「・・・・・ほう・・・。」
確かにそれはすばらしい桜だった。見事な枝ぶりに満開の花びら。しかもその花びらは他の染井吉野に比べて幾分紅が鮮やかなようにも感じる。白い土塀から突き出たその枝に感嘆のため息を漏らしながら二人はその木の下まで歩んだ。
「しかし・・・。花見と言うからにはこんな往来で酒を酌みかわすわけにもいくまい?見ればどうやらだれぞのお屋敷のようじゃないか?」
塀はずいぶん長く続いているようである。と言うことはかなり敷地が広いと言うことだ。周囲をきょろきょろと見回す篤志ににやりと坂下が笑った。
「ああ、華族様のお屋敷らしい。だが住んでるのが年寄り夫婦でね。この間この家で翻訳の仕事を少しさせてもらってそのついでにここで花見をさせてもらっていいか許可をもらったんだ。さあ、入ろう。」
「翻訳?仏文のか?」
勝手知ったるなんとやらと言うように門に向かう友人の後を追いながら篤志は桜を再度振り返った。確かに美しい。
「いや、英文のだよ。ご主人が趣味で集めた古書の翻訳でね。まあ、もちろん仏文のものもあるんだが、僕は仏文はさほど得意ではない。そこで・・。」
「おいおい、俺に手伝わせようという腹か?」
呆れ顔でともに門をくぐる篤志を見ながら坂下はばれたか、と舌を出してみせた。この友人、いつものことではあるが要領がいいのである。
「謝礼の3割とここの酒代で引き受けないか?」
「仕方ない。どうせもう話はしてあるのだろう?」
「ばれたか。」
からからと笑う坂下に苦笑して篤志は屋敷の玄関に立った。

桜は見事だが仕事はなかなか終わらなかった。篤志たちが通されたのは桜が咲き誇る庭に面した広い和室だった。
もちろん、酒を飲みながらという部分もあるのだが、ご主人の蔵書とやらがかなりの多さだったのだ。どこからこれほどの量のフランス文学を仕入れてくるのか、もちろん仏文を学ぶ篤志にとってもかなり興味深い書物もあって半ば仕事を忘れて翻訳に没頭した。
その上美しい桜。
聞けば、この家の先祖には陰陽師がいたらしい。あの桜にはその陰陽師に纏わる悲しい逸話があるらしいが、篤志にはさほどその辺りのことは興味がなかった。
明治の世に物の怪がいてたまるかと言う篤志に坂下はからからと笑い、今の天皇も陰陽の技には頼っているらしいぞと言う。
だが、文明開化してすでに40年余りが過ぎ去った。篤志にはそう言った夢物語が酷く非常識的なことに思えて仕方なかった。
そして夜半。
今日はこの屋敷に泊めてもらえることになっていた。初対面でそれはさすがに気がひけたが、かなり飲んでしまったこともあって篤志もその好意に甘えることにした。主である老夫婦はとうの昔に床に着いていた。
「少し厠に行って来るよ。まだ、寝ないだろう?」
そういいながら立ち上がった坂下に書物から顔も上げずに篤志は頷いた。ろうそくの明かりだけでは読みにくいことこの上なかったが、今ちょうどいいところなのである。ここで寝る気には到底なれなかった。
ろくに返事もしない級友をくすりと笑うと坂下はふらふらと少々おぼつかない足取りで障子を開け、廊下へと出て行った。
春とは言え夜はまだ少々冷える。篤志はガクランを羽織り、開いた障子の隙間から一瞬桜を見た。桜は夜の闇に浮かび上がるように相変わらず美しくも堂々とした姿をしていた。
「しかし・・さすがに目が疲れたな・・。」
眉間の間を指で揉み解しながら再び書物に取り掛かる。
が、それからずいぶん時が流れたと思うのに坂下が帰ってくる気配はなかった。
「・・遅いな・・。まさか厠で寝てるのではあるまいな・・・。」
少々心配になって篤志は立ち上がった。ふと、その篤志の顔に優しい夜風が吹いた。開けっ放しになっていた障子の隙間から外を見ると桜の木の下に誰かがいる。
「ん・・?まさか、坂下のやつ、あんなところに・・?」
廊下に出て、庭のほうに目を凝らすが、どうも坂下ではないらしい。
「・・・女・・・?」
桜の木の下に儚げに立ち、どこか寂しげに満開の枝を見上げるその姿はまさに美しい少女のものであった。艶やかに長い黒髪。薄紅の着物にえんじの袴。華奢な手足。そして白い肌。くっきりとした二重の瞳に、桜色の唇。すっと通った鼻梁が横顔にいっそう映え、篤志はその美しさに思わず見とれた。
思わず廊下に出て声をかけてしまう。
「そこで何をしている・・?」
「あ・・・。」
少女はまるで人がいることに気づかなかったように戦き、篤志を見ると顔を伏せた。
「あ・・ごめんなさい・・。桜がきれいだったから・・・。」
そうつぶやきながら桜の木の陰に隠れようとする少女に、篤志は思わず裸足で庭に降り立った。
「ああ、いや。まってくれ。責めてるわけじゃない。俺はこの屋敷のものじゃないしな。」
篤志の言葉に少し緊張の色を浮かべたまま少女は隠そうとした身をとどめた。その様子に安堵して篤志は少女に近づいた。間近に見れば見るほど美しい。
「君は・・・一体どこのご令嬢だ?」
篤志もそれなりに金を持っている家の出なので、少女が着ている着物と袴の仕立ての良さを一発で見抜いた。
もしかしたらこの辺りの住人かもしれない。
だが、篤志の問いに少女は困ったように微笑むだけだった。
「ご令嬢なんて・・そんな・・・。」
自分の事を知られたら困るのかもしれない。
そう判断した篤志は質問の仕方を変えることにした。
「いつもこの桜を見に来ているのか?」
これには少女はこくりと頷いた。
「こんな夜更けに?」
またも少女は頷く。
「危ないだろう。婦女子が一人でこんな時間に出歩いてては。」
そう言った篤志を少女はくすりと笑った。
「おやさしいのですね。」
「いや・・・そういうわけじゃないが・・。」
滅多に優しいなどと言われることはない。どちらかと言うと長身な上に無愛想な印象を与えることが多いので、怖がられることが多いのだ。
少々戸惑う篤志をまたも少女がふふ・・と小さく笑った。
「それでは私・・失礼しますね。」
「ああ・・待った。送っていこう。」
思わず掴んだ手に少女の頬が赤く染まってはにかむのがわかった。そう言ったしぐさがまた愛らしい。
「いえ・・・すぐ、近くですので・・。」
「だが・・・。」
「大丈夫ですわ。お気持ちだけ、受け取っておきます。ありがとうございます。」
どうやらどうしても送られたくはないらしい。
妙に残念な気持ちになって手を離した篤志に少女は丁寧に頭を下げた。
「じゃあ・・・名前だけ、教えてくれないか?俺は、山下篤志と言う。」
「・・・櫻と申します。」
穏やかに名乗ると、少女は門のほうへと小走りに駆けて行く。
「あ、待って!また会えるか?」
一瞬少女は振り返り、ほんの少しだけ微笑んだ。
「桜が散るまでは・・。」
呟くように言い、桜の大木をいとおしげに見た後少女は門のほうへと姿を消した。
「櫻・・・か・・・」
その楚々とした印象に似つかわしい名前だと思った。清楚で、華やかで、それでいて静かで・・芯の強そうな・・。
ぼんやりと少女を見送っていた篤志の背中に声がかかる。
「おい、山下。そんなところで何をしているんだい?」
振り返ればあれほど帰ってこなかった坂下がいた。
「ああ・・・いや・・・。」
坂下のもとに戻りながら、なぜか篤志は少女のことを坂下に話す気にはなれなかった。腑に落ちないような顔で戻ってくる篤志に坂下はばつが悪そうな顔で頭を掻いた。
「厠の前で寝てしまっていたよ。どうやら酔っ払ったらしい。僕はそろそろ寝ようと思うが、山下はどうする?」
「・・そうだな。俺も寝るか。」
到底続きの翻訳などできそうにはない。
心は先ほどの少女に思いをはせながら篤志は床に入る準備をした。

篤志は、それから毎日屋敷に足を運び、仏文の翻訳をするようになった。
「おいおい、僕以上に仕事をしてるじゃないか?これじゃあ3割なんて言えないよ。」
坂下がそう言って笑うほどに通いつめ、夜中まで仕事をし、泊り込むことも多くなった。
櫻と名乗った少女にはほぼ毎日と言っていいほど会えた。だが、なぜか坂下がいないときに限って少女はいつのまにか姿を現すので、篤志は少女のことをなかなか坂下に言えずにいた。まあ、女たらしの坂下にばれては二人の逢瀬を邪魔されてしまうと思ったこともあったわけだが。
櫻は、なかなか名前以上の事を語ろうとはしなかった。
あまり話が得意ではない篤志の言うことを微笑んで聞き、相槌をうつ。だが、それだけで篤志は満たされていく。篤志は、確実に櫻に惹かれていく自分を知った。
そして桜が散り始めたある日、二人は最初の接吻を交わした。
「櫻・・・好きなんだ。君がどこの誰でもいい。好きなんだ・・。」
そう囁いて篤志がその華奢な体を抱きしめると、櫻は少し悲しげに微笑んでみせた。
「私は・・殿方を不幸にしてしまいますから・・。」
櫻の告白にふんと篤志は鼻でせせら笑う。
「君に不幸にされるほどやわな男じゃないつもりだ。櫻は俺が嫌いか?」
「そんな嫌いだなんて・・。」
「じゃあ、俺のことをどう思っている?」
篤志の強い口調での問いに桜は知らず目を伏せる。赤く染まった頬が答えを言っているようではあったが、篤志は直接櫻から答えを聞きたかった。
「櫻。言ってくれ。どうなんだ?」
「お慕い・・申し上げております・・・。」
嬉しさが胸に込み上げ、その細い体を思い切り抱きしめる。
「櫻・・もうすぐ桜は散ってしまう。だけど、君は俺とともにいてくれるな?」
「・・・篤志さん・・・。」
暗く沈んだ返事に篤志は櫻の顔を覗き込んだ。
「いいだろう?君が好きなんだ。君と一緒にいたいんだ。」
「私も・・できれば一緒にいたいのですけれど・・。」
篤志は、前もって用意してあった紙を懐から取り出して櫻の手のひらに押し付けた。それは、篤志は現在一人暮らしをしている家への地図だった。
「ここに来て欲しい。明日、夜中でも何時でも構わない。なに、気楽な一人暮らしだ。誰に気を使う必要もない。来てくれるか?」
きつく抱きしめ、強い口調で問いかけながら答えを待つ。かつて、これほど緊張したことがあっただろうか。
「でも・・私・・・・。」
「だめなら迎えに行く。どうだ?」
しばらくの沈黙が流れた。とても長い時間に思える一瞬。
「ふ・・・。」
細く櫻が息を吐き、頷く。
「わかりました・・・。では明日の夜半、お伺いさせていただきます・・。」
「櫻・・・。」
感極まって口付ける。吸った唇は柔らかく、啜った唾液は殊のほか甘かった。かつてそれほど女に興味を持ったことはないが、櫻ほどのいい女はいないだろうと篤志は思った。
「私・・そろそろ行かないと・・・。」
「ああ・・・じゃあ、明日、待ってる・・。」
「はい・・。」
玄関にいつものように向かう櫻を見送り、篤志は自分も追うように玄関へと向かった。
名前以外櫻のことを何も知らない。
今日こそ櫻の住んでいる場所を突き止めるのだ。そして、明日来なければ迎えに行く。
すでに7割散った桜が篤志を焦らせていた。今しかない。
だが、門から出た篤志は驚愕に足を止めた。
「・・・なんだって・・・!?」
櫻が出てからほんの数秒。にもかかわらず、そこには人の姿などこれっぽっちも見えなかったのだ。
「そんな馬鹿な!」
慌ててあちらこちらを駆け回ってみるがやはり櫻の姿はどこにも見えない。
落胆よりも、狐につままれたような気持ちになりながら篤志は屋敷へと戻ったのだった。

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