櫻〜黄焔抄〜(前編)
今日も街角で軍歌が聞こえていた。
大日本帝国の偉大さを称え、若者を血塗れの戦地へと送り出す歌が。
昭和20年。春。
物資も何もない時代。ただ、勝利への信念と、ファシズム下、軍への恐怖のみが国民を支え、追い立て、一つの目標へと向かわせていた。
すなわち、戦争に勝ち、神たる天皇陛下の国土を広げること。
だが、その信念の空しさは当事者である軍と、その軍を侵しつつある物の怪とも言うべき勝利への固執、狂気だけが知っていることであった。
遠い空の下。
すでに満州国はつぶれ、米軍は原子爆弾の投下を計画し始めていた。
大日本帝国の崩壊は、すぐそこに迫っていた。
夜更けの京の町を、黒ずくめの一人の男が闊歩していた。
戒厳令下の日本の夜は暗い。その闇をものともしないかのように男は早足で歩んでいく。梅が散ったばかりの京の夜はまだかなり冷え込む。が、この物資のないご時世にメリヤスの黒コート。黒い革靴もコートの裾から覗く黒いウールのズボンもかなり仕立てのよいもののようだった。短く刈り上げた髪に切れ長の精悍な瞳。年の頃は二十歳ごろだろうか。その鋭い眼光で見るのは、何も夜の闇ばかりのようではなかった。
渦巻く瘴気の中に飛び込み、場所を確認する。
そこは軍部の施設に程近い場所であった。
「・・・やはり軍の近くは物の怪が多いようだな・・。」
静かな男の独り言に応ずるかのように男の周囲には胸が悪くなるほどの瘴気が乱れ舞い、その内より醜くも悪しき魑魅魍魎の類どもが顔を覗かせる。
男はコートに隠していた白手袋の両手を前に突き出し、その夜目にも鮮やかな白い軌跡を持って九字の呪法を行う。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前!」
高まる強力な気によって怯む物の怪どもに男は懐から出した数枚の紙に呪を込める。
「去れ。」
紙より出でしは式神の鬼。それらは凄まじい爪を振るい、牙をもって周囲の魑魅魍魎どもを瞬く間に掃討した。
魍魎どもの断末魔を聞きながら男はわずかにその秀麗な眉を顰めた。
「・・・人が生み出したものとは言え・・・・やはり余りいい気分はしないな。」
戦争が進むほどに物の怪はその数と勢力を増していた。自分一人祓ったところで焼け石に水だと嘲笑うがごとく。それほど、人の心が荒んでいるということなのかもしれない。
大切なものを失う悲しみ。理不尽な戦への憎しみ。むやみやたらと情報操作によって植え付けられた鬼畜米英他敵国への恐怖と蔑み。
日本人もさして変わらぬことはしていると言うのに。
満州事変。南京大虐殺。朝鮮支配。
だが、「神民」たる彼らの誰がそれを知り得たろう。
踊らされていることに気づくことなく粗末なぼろ布をまとい、戦火から逃げ惑いながらも無用な誇りだけはどこの大国にも負けぬ。
全て軍の仕組んだこととは言え、愚かにもほどがある。
「ここが神の国だと言うのならば・・どこに救いの神はいると言うのだろうな・・?」
男が身を翻し、闇の中に姿を消し去った後には粉々に引き裂かれた瘴気の後を覆い尽くすかのごとき瘴気がさらに流れ込むのだった。この瘴気が人の負の感情を受け、やがてまた魑魅魍魎を生み出していく。まさにいたちごっこと言わざるを得なかった。
そしてそれは、いつの乱世にも繰り返されてきたことであった。
男は、とある古い旧家へと足を運んでいた。京のはずれのそこは、そこだけが時代に取り残されたかのような緩やかな時の穏やかさに包まれていた。
そろそろ寅の刻にもなろうかという頃。見上げるほど大きな門の横にある通用口を勝手知ったるようにくぐった男を若い女中が出迎えた。
「お帰りなさいまし、お坊ちゃま。お疲れ様でございました。」
「ああ。」
女中に気のない返事をして男はまっすぐ中庭のほうへと向かう。もういつものことなのか、女中は一応の確認であるかのように男に尋ねた。
「葵坊ちゃま。湯浴みは起きてからになさいますか?」
男はやはり気のない様子で振り向きもせず、背中越しに答える。
「ああ。11時頃起こしてくれ。」
「かしこまりました。」
事務的に答えて深々と頭を下げる女中を残して葵は白砂を敷き詰めた中庭へと足を踏み入れた。
贅を凝らした堂々たる日本庭園。その奥にはまだ蕾も固い桜の大木。
聞けば、この桜は樹齢が千年以上にもなると言う。古くからこの屋敷のこの庭に座し、時代が流れるのを見守ってきたとか。
また、如何わしい噂もある。
嘘か真かはわからないが、平安時代の先祖がこの桜に棲む鬼となったと言う。以来、この桜は何人もの命を吸い続けているのだとか。
その噂の真偽はどうあれ、この桜に並々ならぬ霊力が宿っているのは間違いがないようだった。この桜の木から摘んだ花で桜湯を入れれば少々の病ならたちどころに治ってしまう。そのため、この桜は忌まわしい噂を持ちながらも、ずっとこの場所にありつづけたのだった。
切ろうとした愚か者も中にはいたらしい。
だが、結局は携わったものが原因不明の病に倒れ、最後まで成し遂げられなかったとか。
「桜の下には鬼が棲む・・・か。本当にいるのならば俺の前に現れればよいものを。1000年も木の中じゃ退屈だろう。俺が話し相手にでもなってやる。」
そうすれば、こんなくそ面白くもない戦争の世の中、少しは面白味が増すかもしれない。魍魎を打ち滅ぼし、そしてまた増える。その繰り返しにいささか飽きてきたのかもしれない。
戦争が終わらなければ実に無意味なこと。いっそ軍の上層部に呪いでもかければよいものを、と思うこともあった。だが、呪いを生業にしているからこそ、簡単に呪いをかけるような真似はしない。自分が下手な考えを起こさなくとも、すでに戦死者が呪っているかもしれない。
葵が桜を見上げてこう愚痴るのは毎夜のことだった。もういつの頃からかも忘れた。
祓う気などはさらさらない。そもそも、強力な陰陽師を輩出し続けてきたこの家柄にあってこの桜がそのままにされているということはいかに自分だろうが先代だろうが祓う事がかなわぬほどの相手だと言うことだ。とはいえ、ここ近年では誰もその鬼とやらを見たことがないと言う話だが。ただ、祖父の話じゃあ、祖父の子供の頃、鬼に取り殺された学生がいたらしい。だがそれだって鬼の姿を見たわけじゃない。
あるいは好奇心。
あるいは浮世に疲れて憂さ晴らし。
「・・・人は見えないものを恐れるものだ。あるいはいないのかも知れんな。」
いつものように葵が呟いて桜から視線をそらしたとき、不意にその気配は湧き出した。
「・・・!?」
ザアッ・・・
風が流れ、一瞬閉じた目が視界を塞ぐ。そしてほんの一瞬の後、再び明らかになった視界の前にそれはあった。
幽玄の美。
闇夜に白く浮かび上がる肌。しっとりと艶やかな鴉の濡れ羽色の髪。鮮やかな緋色の小袖。儚げで、今にも折れてしまいそうなほどの華奢な手指。
まさしくそれらが醸し出す造詣は幽玄の美と形容するにふさわしいものであった。
「・・・・あ・・・。」
ごくりと生唾を飲み込む葵の前で女は赤い瞳をゆっくりと開いた。その艶やかな桜色の唇が薄く笑みの形に刻まれる。
葵には・・いや、葵でなければわからなかったに違いない。
女は美しすぎた。
そう、人間とは程遠く。
「まさか・・・本当に・・・・。」
胸の内で続く言葉はあったが唇から出ることはない。その美しさ、纏う気配の怪しさに圧倒されながらも葵はようやく胸の前で九字を切った。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前!」
もちろん九字切り程度で相手がどうにかなるとは考えていない。相手に害意は感じられなかったし、無論、もし相手にその気があったならこの呆気に取られた隙に事は片付いていたであろうからだ。だから九字を切ったのはむしろ自分を奮い立たせるためであった。葵のその様子を見て女がわずかに微笑んで唇を開いた。
「・・・・陰陽の術を生業とされるのですね・・?」
女の静かな問いかけに葵は一呼吸置き、できるだけ落ち着いた様子で頷いた。
改めて落ち着いて対峙してみればわかる。強力な霊力の影にどこまでも深い悲しみ。この女は間違いなく、鬼なのだ。
「あなたがこの木に棲む鬼だと言うのならば、俺はあなたの数代後の子孫と言うことになる。そうなのか?」
葵の問いかけに女の瞳が少し悲しげに細められた。
「・・そう・・。私はすでに鬼と呼ばれるにふさわしい存在・・。この数日語りかけるだけだったあなたをもう愛そうとしている。」
「な・・に・・?」
女の言うことが図りかねて葵はその秀麗な眉を顰めた。
愛そうとしているだと・・?
「俺のことを懸想していると言うのか?」
「そうです。」
知らぬ間に、女との距離は縮まっていた。なぜかそのことを不自然だと思わない自分がいる。
「私がそう願わなければ私の声はあなたに届かない・・。私は・・願ってしまった・・。」
一瞬女の顔が苦しげにゆがんだ。紅い瞳が潤み、血の涙を浮かべたように見えて慌てて目を擦る。再び女に視線を戻せば女はすでに自分の目の前に立ち、その瞳は黒く、月明かりをわずかに反射して光りながら己を一途に見上げていた。
「お慕い申し上げております・・。」
身を寄せてくる女が齎す魅惑に一瞬葵の心の中に不協和音が生じた。陰陽師として、人外のことに敏感な身ゆえ。
おかしい。
「ちょっと待ってくれ。俺は・・・。」
女の手が葵の胸に触れた。ふと、湧き上がる愛情。この女を抱きしめるのは至極当然のように思えてきた。
「愛してください・・・。」
女は懇願する。
「だが俺はあなたをしらな・・・。」
「櫻と呼んで下さい・・。」
見上げた女が余りにも寂しげだったから。
抱きしめた体が余りに冷たかったから。
ふと嗅いだ髪の香りが余りに愛しかったから。
この非常時に。
葵の理性が奥底で叫んだ。
この非常時に、俺は鬼に捕まるのか。
唇を合わせた瞬間に流れ込んでくるどこまでも闇に近い悲しみ。慟哭。
鬼は伝えようとしていた。
狂気に押し流されそうになりながら。
そのまま葵を吸い殺したい欲望にがんじがらめにされながら。
愛してください・・・・。そして・・・殺して・・・・。
結界は時の流れすら外界と隔たる。
そこではなぜか桜が満開に咲き誇っていた。
「櫻・・・。」
女はすでにその白い肌を晒していた。華奢な体からは想像もつかないほど豊満な胸。程よい張りを持った腰。秘裂をかろうじて隠すほどの淡い茂み。
惜しげもなくそれらを晒して葵へと歩み寄る。桜の根元に腰を下ろした葵は歩み寄る櫻を抱きしめるとそっと唇を重ねその場へと横たえた。
「ん・・。」
重ねるだけの口付けは徐々に濃厚になっていく。隙間を埋めようとするかのようにぴったりと合わさり、舌が二人の口の中で踊るように絡み合う。啜りきれなかった唾液が顎を濡らす頃、ようやくその唇が糸を引いて離れた。
このご時世だし、家が家なこともあって葵はこの年になるまで女を抱いたことはない。悪友が見せる闇市で流れるような本で男女のことの詳細はある程度知識としては知っているものの、実際に女の肌に触れたのは初めてだ。
ぎこちない手つきが櫻の胸の膨らみにそっと触れていく。柔らかい膨らみをそっと捏ねると櫻の唇から甘い吐息が漏れた。
「もっと・・・もっと、強く・・・。」
請われた声に酔わされるように揉みしだく手に力を込め、手に余るほどのそのふくらみの形を変えていく。掌に当たるぷっくりとした先端の感触は徐々にこりこりとした硬いものに変わっていく。その感触を楽しむ余裕もなく理性を溶かされ、葵は櫻の胸にむしゃぶりついた。口の中でこりこりと立ち上がる乳首の感触を楽しみ、柔らかな餅のような白い乳房を愛でる。
「あ・・ああ・・・。」
柔らかくも甘い声を漏らしならが白い裸身が闇の中でくねる。その体を弄る男はいまだ黒ずくめのままで。
ちゅ・・ちゅく・・・
赤子のように不器用に乳首を吸っていると甘酸っぱいような情が胸に溢れてくる。
なぜだろう?
一瞬そんな疑問が頭によぎる。
俺は何をしている・・?
体はそうしている間も櫻の色香に魅せられるままに白い肌を弄り、口付けて後を残していく。唾液の後引く舌は乳房をぬらぬらに光るまで嘗め尽くした今は腹を臍のほうに向かって辿っていた。
『・・・愛してください・・・』
女は確かにそう言った。
『殺してください・・・。』
触れながら、触れさせられながら葵は徐々に感覚が冷めていくことを知った。
これは俺の本来の感情ではない。俺は、櫻を愛するように『仕向けられているのだ』。
「あ・・はぅ・・・あん・・・。」
ゆるゆると首を振りながら喘ぐ櫻の瞳は黒い中に紅い狂気の光を宿している。
『愛して欲しい・・・。』
これもきっと本音。この欲望が櫻との抱擁へと己を導いている。
では・・。
『殺してください・・・。』
淡い茂みを分けてすでに淫らな香りが立ち上る秘裂に舌は到達しようとしていた。
「あ・・ああん・・・。」
緩やかに白く細い足が開いていく。
計算し尽くされた恥じらい。瞳は葵を見てはいない。
櫻の狂気にとらわれた体はすでに濡れて蜜が滴るそのあわいを指で押し開く。
「あ・・見ないで・・・。」
・・・見て・・・私を・・愛して・・・。
くらりと眩暈を覚えるほどの情念。
言葉の裏の真意。それすら狂気に彩られて。
ぴちゃ・・くちゃ・・・じゅる・・。
葵はなんのためらいもなしに女の秘所に唇をつけた。伸ばした舌で秘裂をぞろりとなぞり、犬のように蜜を舐め啜る。
「あん・・あぁあ・・・っ。」
震える声が女の唇から漏れて快楽の度合いの深さを知らしめる。
もっと・・もっと・・・。
言外にそうねだるのを感じて湧き出る泉を無心に啜っていく。
敏感な突起を舌でつつくと腰が震えた。逃すまいとその腰を抱きしめて突起をひたすらしゃぶれば泣き声にも似た声を上げてその体が激しくくねる。逃げたそうな反面、もっととねだっているのは溢れる蜜の多さでわかる。
くちゅ・・じゅる・・ぴちゃ・・ぴちゃ・・・ちゅる・・・
「あ・・ふあ・・・あん・・あ・・・ああんっ。」
淫靡な水音。甘い嬌声。荒い息。
静かな空間にそれらの音だけが密やかに響いていた。
「あ・・・葵さん・・・もう・・きて・・・。」
ねだりながら自分を見つめる瞳の色は赤。
「櫻・・・・。」
その紅が一瞬黒へと変わる。
・・・・・こないで・・・これ以上、奪わせないで・・・。
怒涛のごとく流れ込む感情。
だが、狂気に縛られた体は女の足を割り開き、その間に体を収めると蜜壷の入り口に熱く滾る欲望を宛がわせる。
「・・・櫻・・。」
それが相手の本意でもなければ。
「葵さん・・・。」
己の本意でもありえない。
ずりゅ・・・ぐちゅ・・・
「あ・・・ああああっ。」
「うう・・っ。」
体を重ねた瞬間知った。
目も眩むほどの脱力感。
狂おしいほどの愛情。
痛いほどの孤独。
寒いほどの不信。
・・・愛してるから殺める・・・。
だから・・・コロシテ・・・・・。
汗まみれの裸身で睦みあいながら櫻はほんの少し微笑んだ。
「あなたが初めてです・・・。」
「・・え・・?」
柔らかい乳房を撫で、背中から華奢な体を抱きしめる。
終わってしまえばそれほどの束縛感はなかった。ただ、狂おしいほどの愛情の残り香が熾き火のように奥底にくすぶりつづけているだけで。
「私の願いを感じてくれたのは・・・。」
葵は身を起こし、短い髪を乱暴に掻きあげた。
「叶えるのは生半可なことじゃない・・。」
だが、知ってしまった。
血が近いせいか、他の理由かは知らない。何の因果が狂える桜の化身と抱き合う羽目になってしまった。
「では、逃げてください。」
苦い笑みを浮かべた女は立ち上がると、小袖をその身に纏った。
「もう、『愛せる』時間のほうが短いのです・・。殺す前に・・・。狂った私が・・・あなたを殺す前に・・・・。」
ざあっ・・・・
風が流れた。
「な・・・・・。」
時が早く流れるのを感じる。
自分が張った結界はいとも簡単に櫻に解かれたようだった。気が付けば、哀れな物の怪はその姿を消していた。
「愛しているから・・・殺せ、か・・・・。」
胸の前でぎゅっと右の拳を固めてみる。ゆっくりと開けばそこには一枚の花びら。
「話し相手どころじゃなかったな・・・。」
苦笑を浮かべ、首を横に振って立ち上がると身支度を整えた。
鬼に魅入られれば夜毎情を重ね、やがては死に至るという。
牡丹燈篭がそうだったか。
「これがなきゃな・・。とっとと引導を渡してやるんだが・・。・・返り討ちにあうのが関の山かな。この力の差では。」
胸の熾き火を苦い思いで感じながら葵は屋敷へとその足を向けた。